ヴィム・ヴェンダース『アメリカ、家族のいる風景』(2005)

最近、TSUTAYAヴェンダースの映画を片っ端から借りてみている。なぜ彼の作品に惹かれるのだろうか。おそらく彼の作品で執拗に取り上げられている移動や離別、それにともなう孤独と苦悩に惹かれているからなのだろう。『パリ、テキサス』を観てからは『緋文字』、『都会のアリス』、『アメリカの友人』、『アメリカ、家族のいる風景』を観た。全てしっかりと言語化したいが、今回は『アメリカ、家族のいる風景』について少し感想を。

アメリカ、家族のいる風景 [DVD]

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 『パリ、テキサス』で脚本を担当していた劇作家のサム・シェパードが今回は脚本だけでなく主役として活躍している。シェパードは実は今年の7月に亡くなっている(追悼記事もいろいろ出ていたがここで訳してみてもいいかもしれない)。RIP。

やはり本作でも家族がテーマとなる。西部映画のスターであった俳優ハワード・スペンスが撮影現場を飛び出し、昔撮影のロケで訪れた地で関係を持った女性との間に生まれた息子を訪ねるという話である。同時にその息子だけでなく、もうひとり、別の女性との間に産まれた娘も偶然ハワードに出会う。その異母兄妹とハワード、またその息子の母が和解して家族を築くことにはならない。ただすれ違うだけである。もっともすれ違うだけではなく、ハワードの突然の来訪に母子はかなり動揺し日常にも影響を及ぼすことになる。ハワードは結局、映画制作会社のエージェントにより現場に連れ戻されることになるのだが、それでも彼との出会いを通して異母兄弟には変化が訪れる。血のつながった兄妹であることをきっかけにして、そして、彼女がハワードとの別れ際に告げたまだ見ぬ父へのかつての思いを聞き、打ち解けることになる。

ハワードは嵐のようにさってゆくが、その後にかすかな何かが芽生えることになる。そこに、『パリ、テキサス』においてトラヴィスという突然発見された来訪者を契機として母と息子が出会う、そしてウォルト夫婦はハンターとの離別を経験する、という物語構造との類似を認めることができるだろう。しかし何かが違うとも思う。なぜだろう。『パリ、テキサス』ではトラヴィスは自分が家族を営むことに向いていないという事実を再認識したために去ることとなるのだが、『アメリカ、家族のいる風景』では映画会社のエージェントに連れ戻されるという外的な要因により彼らはまた離れ離れになった。心理的な要因か外的な要因かという差異。しかし考えてみれば、本作ではそもそもが映画産業という要因によってあらゆることが結ばれていたとも言える--ハワードが予期せぬうちに息子と娘を設けていたこと、アルコールとセックス、麻薬への依存、それらからの離脱と彼等との再会。全て彼が西部映画のスターであったことと関係している。そして彼が引き戻されることもしかり。ハワードは確かにある程度、心理学的に深い内面を備えた人物で完全に彼のことはわからないようになっているのだが、それよりもやはり映画産業の存在がここで大きな要素として存在しているように思えてならない。それが何なのかまだ私にはわからないが、直感的に大事なような気がする。とりあえず感想はここまでにしておこう。忘れないうちに『都会のアリス』と『アメリカの友人』についても書かねば。いやそれだけではない。最近は他の監督の作品もいろいろみているぞ。ヴィスコンティ『地獄に堕ちた勇者たち』、クストリッツァアンダーグラウンド』もだ…。言語化って大変だ。