for all bulmic imitators.

メモの堆積、ゴミの堆積

伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(2015)

 すばらしい本だと思う。

目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)
 

 筆者が行った視覚障害者へのインタビューをもとに書かれた書である。見える人が見えない人に接するときは、相手が見えていないところをカヴァーしてなるべく見える人に近いような状態にしてコミュニケーションを取ろうとしてしまう傾向にある。しかしそれは見えない人に対して見える人の認識を基準として接することにほかならない。筆者は見えることと見えないことという差異を踏まえたうえで、どちらかの認識を絶対化せず、お互いが異なる認識によって生きていること自体にまず興味を持ち、それから相手の認識を知ろうとする。自分の全く知らない世界があることを知り、その異なる世界に想いを馳せることを通じて、いままでの認識に変化が起きるかもしれない。想像力を介したそんな「変身」の悦びを本書は伝えている。

「私は障害者である」または「私は障害者ではない」からそうではない人のことを理解することなど不可能であって、いわゆる他者理解など認識論的な誤謬であるといった当事者性に関する強力な論理が支持を得ているなか、筆者は新書という軽い書物をもってその強い論理に切れ目を入れている。そう考えさせられるのは単に文章の論理が説得的であるだけでなく、本書の記述自体が筆者が見えない人たちとの経験のなかで発見し味わった変身の悦びに支えられているからだろう。本書を読むことによって見えない人の世界への興味の高まりを感じるばかりか、それと同じくらい筆者の思考への興味が掻き立てられる。文化人類学者のごとき--筆者によれば文転するまで彼女が目指していた「生物学者」となろうが--その姿勢を真似てみて筆者の思考に近づきたいという好奇心が強くそそられるのである。当事者絶対化の強い論理に引き寄せられる人にとって、このような変身の実践を軽妙にみせてくれる本書の読書体験そのものが絶好の変身入門となるに違いない。

今日の収穫

綺麗な本が多い店でたくさん購入。

 

映像(イメージ)の論理

映像(イメージ)の論理

 

ヴェンダースによる自作の注釈集。序「なぜ映画を撮るのか?」で題にもなっている質問に対してその質問の浅はかさに戸惑いながらも彼はこう応えている。「目にうつるあらゆる現象と世界は徐々に破壊されてゆくが、その破壊行為が、ほんの一瞬間、ストップさせられるのだ。カメラは、事物の悲惨さ、即ち、消滅という運命に立向かうための武器なのだ。」「消滅という運命に立向かうための武器」としての映画。この記述を信用するなら彼の映画は意識的に創られた「現在」のアーカイヴということになる。

 

パニック都市―メトロポリティクスとテロリズム

パニック都市―メトロポリティクスとテロリズム

 

 ヴィリリオは読んだことなかったがタイムリーなので購入。

 

24/7 :眠らない社会

24/7 :眠らない社会

 

クレーリーの書。監訳が岡田温司というのが意外。

 

遍歴―約束の土地を求めて (〈叢書〉象徴のラビリンス)

遍歴―約束の土地を求めて (〈叢書〉象徴のラビリンス)

 

まったく聞いたことのない著者の本だが訳が種村季弘で、最近興味のある旅や遍歴についての本なので購入。

 

闇の子午線 パウル・ツェラン

闇の子午線 パウル・ツェラン

 

 ツェラーン。子午線ってかっこいい。ロマンがある。

 

眼に映る世界―映画の存在論についての考察 (叢書・ウニベルシタス)

眼に映る世界―映画の存在論についての考察 (叢書・ウニベルシタス)

 

 カヴェルは知っていたが本書がドゥルーズの『シネマ』と双璧を成す映画論書だとは知らなかった。

 

科学者の網膜: 身体をめぐる映像技術論:1880-1910 (視覚文化叢書)

科学者の網膜: 身体をめぐる映像技術論:1880-1910 (視覚文化叢書)

 

この時代には興味ありまくりなので。

ヴィム・ヴェンダース『ゴールキーパーの不安』(1971)

ヴェンダースが映画館配給用に初めて撮った作品である。のちに『ベルリン、天使の詩』で組むことになるペーター・ハントケの小説の映画版。

 主人公はプロサッカーチ―ムのゴールキーパーのヨーゼフ・ブロッホ(アルトゥール・ブラウス)という男。本作は彼の行動の動機の不可解さが中心にある。試合中、注意散漫でボールが来たのに反応をしない、そしてどこかに行ってしまう。一人で街をぶらつき、映画館の受付嬢と一晩ともに過ごすもなぜか絞殺する。しかし彼の心理はわからない。そこから国境近くの田舎町に赴き、知り合いのところに寄るも、ただぶらついて酒を飲んで新聞を読み音楽を聴くというニート生活を送る。最後に近くでやっていたサッカーの試合をみて、ゲームはキーパーの目線で見るとまったく異なって見える、ボールを追いかけてはいけない、人の動きなんだという旨のことを隣に座っていた観客に告げる。完全にサイコパスである。

彼には罪悪感というものがない。道徳が欠如している。完全犯罪をしたわけではなく、証拠は残してしまっているし、それが新聞で取り上げられているのを彼も読んでいる。それに彼のジャケットは目立つし、彼が受付嬢のアパートから出たときには歩行者がいた。田舎町にいくまでの道中でもいろいろな人と接したり、時にはトラブルを起こしたり、完全に顔を覚えられている。だがあの余裕は一体何なのだろう。究極的には身の破滅を望んでいるように思えるが、行動の一つ一つは自分の欲に忠実で普通に生きているだけに見える。しかし、繰り返すが、身の破滅は迫っている。ゆえにそれはゆるやかに破滅を誘い込む身振りといえるだろうか。そうするにあたって彼は街でじっとしてはいない。遠くへ旅立つ。旅立ちと破滅そして孤独、そう考えるとヴェンダースらしい映画であると思えてくる。

しかしハントケが原作をしているだけあってこの映画はやはり難しい。考えをはっきりさせるためにはもう一回くらいは観ないといけないだろうな。

今日の収穫

あまり時間がなかったため2冊のみ。

名指しと必然性―様相の形而上学と心身問題

名指しと必然性―様相の形而上学と心身問題

 

 『探求』や郵便本で知った本書。意外と薄い本。

フリスク

フリスク

 

 昔、『ジャーク』を読んでかなり怯えたのと同時に惹かれるものもあってずっと気になっていた。まあ英語で読めばいいんだけど安かったし購入。

ヴィム・ヴェンダース『アメリカ、家族のいる風景』(2005)

最近、TSUTAYAヴェンダースの映画を片っ端から借りてみている。なぜ彼の作品に惹かれるのだろうか。おそらく彼の作品で執拗に取り上げられている移動や離別、それにともなう孤独と苦悩に惹かれているからなのだろう。『パリ、テキサス』を観てからは『緋文字』、『都会のアリス』、『アメリカの友人』、『アメリカ、家族のいる風景』を観た。全てしっかりと言語化したいが、今回は『アメリカ、家族のいる風景』について少し感想を。

アメリカ、家族のいる風景 [DVD]

アメリカ、家族のいる風景 [DVD]

 

 『パリ、テキサス』で脚本を担当していた劇作家のサム・シェパードが今回は脚本だけでなく主役として活躍している。シェパードは実は今年の7月に亡くなっている(追悼記事もいろいろ出ていたがここで訳してみてもいいかもしれない)。RIP。

やはり本作でも家族がテーマとなる。西部映画のスターであった俳優ハワード・スペンスが撮影現場を飛び出し、昔撮影のロケで訪れた地で関係を持った女性との間に生まれた息子を訪ねるという話である。同時にその息子だけでなく、もうひとり、別の女性との間に産まれた娘も偶然ハワードに出会う。その異母兄妹とハワード、またその息子の母が和解して家族を築くことにはならない。ただすれ違うだけである。もっともすれ違うだけではなく、ハワードの突然の来訪に母子はかなり動揺し日常にも影響を及ぼすことになる。ハワードは結局、映画制作会社のエージェントにより現場に連れ戻されることになるのだが、それでも彼との出会いを通して異母兄弟には変化が訪れる。血のつながった兄妹であることをきっかけにして、そして、彼女がハワードとの別れ際に告げたまだ見ぬ父へのかつての思いを聞き、打ち解けることになる。

ハワードは嵐のようにさってゆくが、その後にかすかな何かが芽生えることになる。そこに、『パリ、テキサス』においてトラヴィスという突然発見された来訪者を契機として母と息子が出会う、そしてウォルト夫婦はハンターとの離別を経験する、という物語構造との類似を認めることができるだろう。しかし何かが違うとも思う。なぜだろう。『パリ、テキサス』ではトラヴィスは自分が家族を営むことに向いていないという事実を再認識したために去ることとなるのだが、『アメリカ、家族のいる風景』では映画会社のエージェントに連れ戻されるという外的な要因により彼らはまた離れ離れになった。心理的な要因か外的な要因かという差異。しかし考えてみれば、本作ではそもそもが映画産業という要因によってあらゆることが結ばれていたとも言える--ハワードが予期せぬうちに息子と娘を設けていたこと、アルコールとセックス、麻薬への依存、それらからの離脱と彼等との再会。全て彼が西部映画のスターであったことと関係している。そして彼が引き戻されることもしかり。ハワードは確かにある程度、心理学的に深い内面を備えた人物で完全に彼のことはわからないようになっているのだが、それよりもやはり映画産業の存在がここで大きな要素として存在しているように思えてならない。それが何なのかまだ私にはわからないが、直感的に大事なような気がする。とりあえず感想はここまでにしておこう。忘れないうちに『都会のアリス』と『アメリカの友人』についても書かねば。いやそれだけではない。最近は他の監督の作品もいろいろみているぞ。ヴィスコンティ『地獄に堕ちた勇者たち』、クストリッツァアンダーグラウンド』もだ…。言語化って大変だ。

今日の収穫

今日も今日とて狩りにいってきた。以下、収穫。

セヴェラルネス 事物連鎖と人間

セヴェラルネス 事物連鎖と人間

 

買ってから気付いたがアツい巻頭解説付き。

いまだない世界を求めて (叢書・エクリチュールの冒険)

いまだない世界を求めて (叢書・エクリチュールの冒険)

 

 魅惑的な装丁。装丁だけでなくなんと中身までスカイブルー。月曜社やりおるな。本書は「叢書・エクリチュールの冒険」シリーズの一冊で、同シリーズには他にブランショ書物の不在』、ド・マン『盲目と洞察』、アガンベン『到来する共同体』などがある。蒐集欲の昂揚を感じる。

話す写真 見えないものに向かって

話す写真 見えないものに向かって

 

講演録、トーク集。写真集含めて彼の本をぼちぼち集めているところ。

表徴の帝国 (ちくま学芸文庫)

表徴の帝国 (ちくま学芸文庫)

 

 文庫版。

審判 (岩波文庫)

審判 (岩波文庫)

 

岩波版。

ヴィム・ヴェンダース『パリ・テキサス』(1984)

 とてもいい映画だった。

パリ、テキサス デジタルニューマスター版 [DVD]

パリ、テキサス デジタルニューマスター版 [DVD]

 

 全てを捨てての放浪、家族の再会、失われた自己の回復、そして父親的な自己同一性をめぐるコンプレックスといういかにもアメリカらしい題材なのだが、同時にどこか違うものも感じさせるのはなぜだろうか。どこかドライなのである。最後にトラヴィスが妻のジェーンと再会し、マジックミラーと電話ごしにクリスチャンのごとき告白をするあのシーンのように、この映画のアメリカ感は奇妙に媒介された印象を受けるのである。もちろんそれはこの映画の監督がドイツのヴィム・ヴェンダースだからというおおざっぱな理由で終わらせることはできない。またはこう言ってもいいかもしれない。あまりにもアメリカンなので変な感じがする。つまりよく出来過ぎているのである。

媒介性。そういえばこの映画には媒介がかなりの頻度で登場する。まず4年間も行方知れずであったトラヴィスの消息が弟のウォルトに知れたのも、彼がウォルトの名刺を持っていて彼を看取っていたらしいヤブ医者が電話をかけたからである。失踪後のジェーンは電話でウォルトの妻アンに連絡をし、ハンターの口座を経由して仕送りをしていた。ほとんど記憶喪失状態であったトラヴィスが記憶を取り戻したのも家庭用ヴィデオ写真を通してである。彼の記憶の回復とそれにともなうアイデンティティの回復はそれらだけではなくてウォルトやアンが彼について語ること、すなわち彼と彼女の記憶言葉も重要な役割を果たしていた。ハンターとトラヴィスの仲が深まっていたところで、二人は学校からの帰路、道路を隔てて反対の歩道を歩いてゆく。アンを探しにゆく際、ハンターはトラヴィス無線機の用意を頼み、それが彼女の発見に欠かせない役割を演じた。そしてなにより、トラヴィスとアンは直接対面はしない。視覚的に一方通行のマジックミラー(映像では明かりさえ当てればアンからもトラヴィスのことが充分見れるのに、一方通行の設定にしてある)と、マイクスピーカーを通して出会い、記憶を語り合い、彼は彼女に息子を託す。

こじつけかもしれないし、この映画に限らず媒介物など現代であればいくらでも登場すると言えるかもしれない。しかしアンとの邂逅のシーンがこのように考えさせるよう誘っていると自分には思えてしまう。そしてそこから飛躍して、ヴェンダースとアメリカの間の媒介を考えてしまうのだ。本作は分かりやすくアメリカ的な自伝にまつわる映画である。おそらくそれは同時に、ヴィム・ヴェンダースにとってもアメリカと彼自身を隔てる媒介があるということ、または両者が媒介を通じてこそ接続しえたということを物語っているようにも思う。彼は他にもアメリカにまつわる映画を多数撮っている。それらは本作とどのように違うのか、違わないのか、もっと考えてみたい。

ちなみに本作の音楽担当はライ・クーダーというギタリスト。彼のスライドギターはとてつもなく太い。そして歌声もよい。

スライドも基本的には指が直接減に触れることなく弾く奏法である。『パリ・テキサス』で彼が奏でるスライドギターの音色は媒体の呻り声といえようか。

クーダーのことを調べてみて初めて知ったのだが、彼は『クロスロード』というギターバトル映画で主人公のギターのアテレコ演奏をしている。この映画はかなり昔から知っていたがいまになって新たな発見があるとは思いもしなかった。

そしてもう一つ。有名なことならしいがスコットランドのバンド、トラヴィスのバンド名は『パリ・テキサス』の主人公のトラヴィスからとられているようだ。ああ、なんだかとても懐かしいものばかりがどんどん出てきてややノスタルジックになってる。